日本にて権力の偏重なるは、あまねく其人間交際の中に浸潤して至らざる所なし。……爰(ここ)に男女の交際あれば男女権力の偏重あり、爰に親子の交際あれば親子権力の偏重あり、家内を出でて世間を見るも亦然らざるはなし。師弟主従、貧富貴賤、新参古参、本家末家、何れも皆其間に権力の偏重を存せり。(福沢諭吉)
ことばに意味が乏しいことは、人がそれを使わない理由になるよりも、ある場合にはかえって、使う理由になる。
日本語における漢字の持つこういう効果を、私は「カセット効果」と名づけている。カセット cassette とは小さな宝石箱のことで、中身が何かは分からなくても、人を魅惑し、惹きつけるものである。
人がことばを、憎んだり、あこがれてたりしているとき、人はそのことばを機能として使いこなしてはいない。逆に、そのことばによって、人は支配され、人がことばに使われている。価値づけして見ている分だけ、人はことばに引きまわされている。
学者や知識人が、ことばの意味をどう定めようと、単なる記号ならいざ知らず、現実に生きていることばは、少数者の定義で左右できるものではない。また、巌本や花袋が、意識的には nature と同じと思いながら、伝来の「自然」の意味を動かしがたかったように、ことばの意味は、使用する人の意識をも超えた事実なのである。
そして、二字の字音語のうちでも、母国語にしっくりなじむことばよりは、どこか違和感のあることばの方がよい。人々が意識的にそう選ぶのではなく、いわば、日本語という一つの言語構造が、自ずからそう働いているのである。
おそらくこれは翻訳語に限らない。およそ新しく出現した事物、外から新しくやってきたものに対して、私たち人間がまず示す反応の、基本的なパターンなのであろう。
それは「今まで空白になつてゐた所へ」「充填」されたのではない。一つの言語体系に「空白」はない。西欧文とつき合わせたとき、仮に西欧文をモデルとすれば、日本語の方に欠けている「空白」がある、ということになるのにすぎない。また、その後、確かに日本語が変化し、しばらくたって人々がそれに慣れたとき、ふり返ってみて、かつてそこに「空白」があった、と感じるにすぎない。
「彼」はある不真面目な男、「彼ら」は当時異端者扱ひされていゐた男女交際論者を指してゐて、純粋の代名詞とは言へず、紅葉初期の試みと同じく、代表される人物に伝いする好奇をともなふ軽蔑の意を強調して使用されてゐるのである。
* コメントにURLを書くとブロックされます。
(私が気付いたときは解除されることもありますが。)
* スパムブロックのため、コメントの反映に時間がかかることがあります。