私の感覚的な表現でいえば、大都会を中心として、地上五メートルぐらいの中空に何十万人もの意識が、さながら糸の切れた風船のように漂っているような気がしています。この本が出版されたのは2007年6月ですが、先日の参院選の民主党一人勝ち状態も糸の切れた風船状態なのではないかと思います…。(だから、私は今のまま解散総選挙するのには反対。)
その風船が、そのときどきの風に応じていっせいにひと方向に走る。
そうした熱狂は小泉政権下で加速したように思います。
1970年には東大合格者上位10校のうち、公立の高校が4校、国立が2校入っていました。ところが2006年の数字を見てみると、公立は上位10校から姿を消しています。これは、地方の貧しい家庭の子どもたちが大きなハンデを負うという以外にも、私立育ち子どもたちは同じような家庭環境が多く、打たれ弱いエリートが日本を背負うことになっていくという意味でも不健全だ、とも述べられています。
東京大学の広報委員会が行った学生生活実態調査では、90年代の初めから近年までずっと、東大生の過程の約半数は年収950万円以上の高所得者層が占めています。
選択の幅が広がっていいじゃないか、という意見もあるでしょう。しかし、私はせめて小学校のうちは、地域で子どもは教育すべきだと考えるのです。地域のいろいろな家庭を知り、地域のさまざまな活動をしる。それを中核にして地域の共同体がまとまっていく。安部晋三が総理になった時、「こんなお坊ちゃんに何がわかるんだ」と思ったことを思い出しました。政治家一族ですかー。しかも小学校から大学までずっと成蹊だって。って。知識として知っているのと、子どものときに生活の中で肌で感じるのとにはやっぱり開きがあると思うから。
「保守」という言葉に込められた真の意味とは何か。これを読んだ時、なんとなく「ぼくらの」の半井摩子のエピソード(TVでは削られてたと思う)を思い出しました。
繰り返しになりますが、私はそれは、伝統的な日本の地域社会の中で、「まとめる側に立つ」ということだったのではないかと考えています。
「コミュニティをまとめていく」という意識で、ときには自分の経済的な利益を犠牲にし、ときには自分がしゃべりたいこと、主張したいことを犠牲にしても、全体ないしコミュニティのために尽くして、守っていこうとする人が地域社会に存在して、そうした人たちの努力の積み上げの上に生まれたのが「保守」なのです。
「古い決まりに囚われてはいけないというので、アメリカの言う通りやってみて、確かにお金も儲かったし、テレビも持てたけど、なんかおかしいね」これは私も感じてる。ずいぶん前から感じてる。
ということをみんなが感じている。
本来であれば、「国会が最高の立法機関」であるにもかかわらず、選挙の先例をへていない人たちが会議を通じて自分の意見で国政を左右してしまっているのです。しかも、その会議の面々は直接利害関係のある業界人だったりして、まるで選手が審判をしているようなものじゃないか!と。
ずっと反主流だった小泉さんは当時、小選挙区制度の導入に反対していて、その反対論というのは、「もし小選挙区を導入したら、公認権を持つ党総裁および幹事長の権力が絶大になって、党内の人が何もものを言えなくなる」ということでした。中選挙区時代の自民党代議士なら15%ぐらいの票をとれば当選できたので、あとは派閥の親分も党も関係ないくらい自由な発言ができたけれど、小選挙区だと自民VS民主党で一騎打ちの場合51%の票をとらなくてはならず、無難な話題しか話せなくなってしまう、という理屈らしいです。
しかし、落ち着いて考えてみましょう。利益率が三割近くで廻る中小企業がどれだけあるというのでしょう。多くは事業を拡大し無理をして借金をし、倒産していくのです。また、個人消費者についても。
木村さんも指摘しているように消費者が貸し金業者からお金を借りる目的の19%が「ギャンブル」、29%が「遊興・飲食・交際」です。(中略)
自分の支払える範囲のなかで、娯楽を楽しむ、そうした「誠実さ」を尊重する社会に私は住みたいと思います。
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