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『精神科医の本音トークがきける本』 香山リカ,岡崎伸郎

 
同年代の精神科医2人のフランクかつディープな対談本。社会が変化してるよね、それに伴って患者も変化してるのは間違いないんだけど、それは例えばうつ病なら、新しいうつ病が出てきたのかな?それともうつ病の周辺部分が肥大したのかな?それともうつ病の表現形が変わったのかな?というような考察をしたり、ぶっちゃけそれって病気じゃなくね?ってのが多いよねと愚痴ってみたり、スピリチュアルブームってどうなのよ?とか、臨床心理士との棲み分けが難しいね、とか、「人権派」ってだけでバッシングされるよね、とか、心神喪失者等医療観察法って…、とか語り合ったりしてます。とっても面白い。


それって「あなたのそれは病気じゃないんじゃない?」と言いたくなるような患者が多いという話で。
香山:他罰的というか、過剰な権利意識、消費者意識の広がり、という問題もあります。これは病院に限ったことではありません。例えば学校や幼稚園、保育園などに対する保護者としての権利意識が、周辺の人との共感のなかから出てくるのではなくて、非常に個人的な損得、利害関係のなかから出てくるようなところが最近はあるんじゃないですか。もちろん、それが妥当なものであればかまわないのですが、なんでそこまで要求するの、といった類のものまで個人の権利として主張されることが、果たしていいことなのか。(中略) 今は、相手が少しでも間違ったら、欧米人のようにちゃんとクレームをつけることが大切なのだ、そうすることが自己責任で自立した人なのだ、みたいな雰囲気になっているのです。そうしたことが、うつ病にも影響して、個人的な利害を最優先する過剰な権利意識や他罰的なケースが増えている、という広い話なのではないかと思うのです。
岡崎:なるほどね、メランコリー親和型性格の特徴でもあった他者配慮性とか協調性とかいうのが影が薄くなってしまって、自己愛的に自己主張するところだけが肥大化して見えるような人が多くなったかもしれないですね。

で、これは「未熟型うつ病」と呼んだらどうか、といっている先生もい。人格が未熟だからというのもあるけど、大人のうつ病になりきれていない、という話もあり。
香山:そういう人たちの悪いところばかり強調していると見られるとイヤなのですが、大事なところなので敢えてお話ししますが、その人達は、自分自身では計算しているつもりなど毛頭ないと思っているのですけれども、私の方から見ていると、巧妙に自分のやりたいことを実現する方向に周りを動かしているようにみえることがあるのです。
例として、「こんな部署に戻るのなら辞める」「こんなはずじゃなかった、もっとクリエイティブな部署に行きたい」「結婚してくれたら…」というようなのが挙げられているのですが、これってまさに今の朝青龍じゃん?と思ってしまいました。今日のニュースでも、相撲診療所長が帰りがけに「悪いようにしないから」と言ったら朝青龍が「にこーっ☆」と笑ったという話があって、オイオイって感じ。「解離性障害」って診断だったらしいけど、「プチ解離」じゃないの?と言いたくなります。

さて、こういう人たちは病気だという以前に「社会化されていない」のではないか、と香山も岡崎も言っています。
岡崎:要するに、もっと「社会化」されなさいってアドバイスするしかないのかな。(中略)
岡崎:どんな人間だって「社会化された」文脈の中でしかお互いの信頼関係はできないし、そうした関係の中でこそ人間は生きていけるのだ、ということを伝えなければいけないと思いますが、どうでしょうか。
香山:具体的にはどう言うのですか。私は、最近年をとってきたのか(笑)、やっとそういうことがわかりかけてきたのです。それまでは、際限なく優しく聞いていたのですが、ある日、いつもの優しい医者ではなくなって、溜息混じりに「あーあ、あんたちょっと、いつまでこんなことやってるわけ?もういい加減にしようよ」みたいな感じのことを言えるようになったのです。

ちなみに、こういう未熟型うつ病には男性、特にそれなりの教育を受けたり恵まれた養育歴を持った若い男性社会人に多いと感じられるようです。日本男性の精神的なもろさがこの10年ぐらいで急速に表面化してきていると。で、タフで柔軟だったはずの女性もだいぶヤワになってるけど、男性に比べればもうすこしゆるやかなようだ、と。

自分探しブームが流行ったり、なんでもかんでもトラウマといってしまったり、本や映画を見てすぐ「自分も多重人格だわ!」とか「私もきっとアダルトチルドレンだわ!」と言い出す人が続出するという話で。
岡崎:名づけられることによって多くの人が腑に落ちてね、自分がそうなんだと言い出すということはあると思うんですけどもね。(中略) 自分の苦しみの本体が何なのかを指し示すことができないということが、実は一番の苦悩だったりするから、それがひとつの概念として名づけられると、かなり腑に落ちると言うことがあるでしょう。そこから問題解決の糸口を見いだす人も確かにいるでしょう。そういう効用はあります。(中略) だけどやっぱり、膨大な予備軍というか周辺にいる人々までをそういう名づけの誘惑に引き込んで、覚醒させてしまったという副作用の方が大きいと私は思っていますけどね。
そのツラさは、病気です』という本が出て話題になってる、病名がつくと安心する、自分の努力不足のせいじゃないと免責されるもんね、という話や、それとは逆に『僕を病名で呼ばないで』という本もあって、ADHDとかLDとかって名前を安易に付けちゃいけない、そんなアイデンティティを与えるのは子どもにとって不利益が大きいんだ、という意見も紹介されています。

で、なんでもかんでもトラウマという患者が多いとか、AC(アダルトチルドレン)のブームの時に火消しが大変だった、という話。
香山:陰性のトラウマとかっていって、結局、暴行されたんじゃなくて「愛されなかった」というのに代表されるようなのとなるとねぇ…。
岡崎:そうそう、当然受けるべき愛情を私は受けなかった、それこそがトラウマであると。ちょっと如何なものかという域に来てますよ。
香山:それもここまで来ると笑い話なんですけど、(中略) 例えばピアノを習わせてもらえなかったとかね、プラスアルファがあるはずなのに私はゼロだったとかいうような。(中略) それは結果としてプラスでもマイナスでもないはずなのに、それまでをトラウマというふうに自分で規定して、決定的に自分は傷ついたと言っている人がいて。もちろん本人の心的現実の中では傷ついたのかもしれないですけどね、それは。(中略)
岡崎:ハッキリ言ったのは、あれは医学的な概念ではないよと。だからカルテの診断メイトか保健診療上の傷病名にはなり得ないものだと。しかもすぐに自己増殖する概念だから注意しなさいと。


自己啓発やスピリチュアルブームについて。
岡崎:ネズミ講はまあ別としても、だいたいの自己啓発セミナーとかって、前払いでけっこう高額でしょ。
香山:ビジネス、プラス、いわゆる自分探しですね、それをひっくるめて自己啓発。そういうのに出会ったあなたが奇跡だとかね。 これはあなた自身を高めるものだみたいな、お金儲けだけじゃなくて自分探しもできると。お金儲けと自分探しのセット。ちょっとした心理学的な物言いと合わさったものですね。
このあたりは、『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』という本があるようで、今ちょっと読みかけ。さっきの「なんとか周りを自分の思い通りに…」と同じで、うつ病でもスピリチュアルでもなんでもがダイレクトに利益に直結してるのが最近の特徴なのでしょーか。

強行採決された心神喪失者等医療観察法は、過去何回も否定されてきた保安処分法とほとんど同じだ、という話で。
岡崎:過去に保安処分が立法化されなかった一番の根拠というのは、人間の再犯の可能性なんて、法学でも精神医学でも分からない。わからないことを根拠に予防拘禁とか矯正治療するというのは非科学的な制度で、それを無理にやれば、長期に不当拘禁されるケースが免れないと。やれないことを法律にしちゃいけないっていう、それが一番大きな論点でした。
香山:その論点に関しては、これまで出てきたのと今回と、基本的には同じなんですか。
岡崎:基本的には同じです。(中略)
岡崎:しかも国会の論戦では、推進派よりも反対派の参考人とかの理屈の方が、公平に聞けばまさっているわけですよ。、ところが時間切れ寸前の採決となったら、ヤジと怒号の中で可決成立ということでね。
いわゆるできレースというやつです。以前「強行採決18回」というエントリでも書いたけど、できレースは民主主義じゃないと思います。許し難い。しかも、今この法律は全然うまくまわってない。現場の人がいくらがんばっても運用はボロボロなんだ、と。

香山:何か問題があるとなんか対策を講じなきゃ落ち着かないというか、そんな脅迫的なものを感じますよね。よく引き合いに出されますけど、ロンドンとかで街に監視カメラをたくさんつけたら、逆に監視カメラのない地域での犯罪が増えてしまって、犯罪総数は変わらなかったんだとかね、そういう話もありますけどもね。
岡崎:だから、「如何ともし難い問題」っていうのが残ってしまうのが人間社会なんだということを、認めないといけないんじゃないのかなと思うんですよね。難問に立ち向かう努力は不断にしなければいけないけれども、対策を立てれば何でも解決するという考え方は傲慢ですよ。


最後に。
香山:解離性人格障害は現代社会への適応なので、治療の必要性はない、という意見もありますが、今のところ精神科医は、そういう患者さんを診た時には人格を統合する方向に導こうとしています。社会もそれと同じで、とりあえずアンバランスな状況があれば、なんとか矛盾を解消し、バランスのよい社会を目指すべき、という基本は今も変わっていないのではないでしょうか。その社会の統合のためにも私たち精神科医が一役買えるのではないか、というのが、これからの私の課題なのですが、それって職権濫用でしょうか。(中略)
岡崎:同感ですね。そう言われて思ったけど、精神医学とか精神科医療って、異常と正常のグレーゾーン、治療対象とそうでないもののグレーゾーン、完治と治っていないの間のように、曖昧部分でもっているようなところがありますよね。だから、極端に走らない社会の方が住みやすいのだという主張にとっては、案外よいモデルになるかもしれませんよ。

先日読んだ加藤紘一の本にも通じるところがたくさんあるなーと思いました。香山リカの『テレビの罠―コイズミ現象を読みとく』という本もあるようなので、読んでみたいと思っています。

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