以前なら、学者が「霊魂の世界は実在する」などと言い出したら、その著作は「トンデモ本」と呼ばれ、その学者はアカデミズムの世界でも居場所を失ったはずなのだが、いまはそうではない。市場主義の法則に従えば、正しいことより多くの人に支持されること、ありていに言ってしまえば、売れることのほうが価値が高いからだ。
たとえば、スピリチュアルな波動やパワーを使って「ステキでリッチなあの彼が手に入りますように」と願い、それが実現されたとして、その陰には恋人を奪われて泣く女性がいるのかもしれない。しかし、現代のスピリチュアルではそこへの配慮は不要らしい。もし、泣く女性が「私も幸せになりたい」と願うなら、彼女は彼女で別のスピリチュアル本なり何なりを見ればいい。その基本にあるのは「自己責任」の姿勢なのである。
江原氏の読者の中心層と思われる二十代から四十代の女性たちは、とかく内向き志向で自責的になりがちだが、自己責任ですべてを引き受けるほどの強さはなく、どこかで「悪いのはあなたじゃない」「そのままでいい」と、許され、受け入れられることも望んでいる人たち、とまとめることもできるだろう。
本当かどうかは別にして、とにかくむずかしいことは抜きで、明るい気持ちにしてもらえる。希望が与えられた気分になれる。小泉前首相のことばは、まさに人々をこうした「気分」にすることができる不思議な力を持っていた。
いずれも、小泉首相の話の内容や政策にではなくて、その「オーラ」「丁寧な対応」「やさしさ」にワクワクし、感動した、と語っているのだ。ここでも大切なのは、小泉首相は瞬間的に人をそういう「気分」にできる人であり、だからこそ「すばらしい」と支持されている、ということだ。という。
そしてその人達は、首相にだけではなくて、わかりやすい科学を語る人やスピリチュアル系のカウンセラーにも同じことを期待する。
「だましてほしい」とまでは言わないが、とにかく明るい気持ちにしてもらいたい。希望や感動を与えてもらいたい。私だけそういう「気分」になれれば、他の人のことまでは知らない。そしてそうしてくれるなら、その内容や真偽のほどは問わないことにしよう…。
たしかに、「いまの人生はあまりにつらいので、せめて前世では武将だったと思わせてくれ」「死後の世界で愛する人たちに再会できると信じさせてほしい」と願う人たちに、「それは科学的に証明されていないから、本当とは言えません」「あの霊能者は、本当に前世やオーラを見ているのではなくて、適当なことをしゃべっているだけかもしれませんよ」などと告げることが、何の救いにもならないことは言うまでもない。
しかしそうだとすると、いまや「科学的真実」の意味などどこにもない、ということになるのだろうか。
しびれを切らした私は、靖国問題に取り組んでいるテレビ局の何人かの知人に「江原氏にインタビューしてはどうか」と持ちかけたのだが、「霊とかオーラとか言ってる人が出てきたら、番組じたいの信憑性を疑われる」と一笑に付された。
しかしそういう人たちの作る番組では、指揮者や政治家たちが「首相が参拝しても英霊は喜ばない」「A級戦犯も分祠を望んでいるのでは」などと、まじめな顔で語っているのである。「霊が喜ぶか否か」を基準にこの問題の是非を論じようとしている彼らのほうが、よほどスピリチュアルに見えた。
江原氏がいくら内向き志向の人たちの意識を外に、社会に、向けさせようとしても、男性は「うさんくさい」と笑って相手にせず、女性は「そんなことより私の恋愛について教えて」と言うばかりなのである。
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