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『テレビの罠―コイズミ現象を読みとく』 香山リカ

 
『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』よりも、かなり硬派寄り。分析対象が少しは絞られているからかな。その分、別の面白さがあります。
続きはあとで書くかも。

(追記) いくつかメモ。

◆何がマスコミを動かしたのだろうか?
小泉圧勝でマスコミが果たした役割を考えるときに浮かんでくるこの疑問。その答えは政治家の意志でもなくマスコミ人の意志でもない。
それは、「市場原理」とその背景にある「民意」だなのだと森氏は言う。

森巣博氏との対談本『ご臨終メディア』での森達也氏の言葉。
少なくともメディアについては、世論を誘導するような根性はないんです。彼らを支配するメカニズムは一にも二にも市場原理です。今のメディアが低劣化する大きな要員は確かに商業主義だけど、逆に言えば商業主義に縛られている以上は、少なくとも民意には大きくは背かないということがいえるんです。
なぜメディアが逮捕は大きく報じてもその不起訴を報じないかといえば、その情報に対してこの社会が欲情しないからです。(中略) だから主体はメディアではない。ところがメディアに刺激され、同時にメディアをコントロールする世相にも、実は主体はない。つまり互いに従属しながら、主体を喪失している。

◆テレビ視聴時間別の自民党への投票率
・選挙前調査(2005年8月20日の読売新聞)
 30分未満…32%
 3時間以上…57%
・選挙後(2005年9月20日の読売新聞)
 30分未満…40%
 3時間以上…57%
 (全体…53%)
つまり単純に考えれば、選挙期間中にテレビを一日三時間以上見ていて「自民党に投票したい」と答えた57%の人たちが、そっくりそのまま、それを投票行動に移したと言うことになる。そしてこの長時間視聴者たちのうち、72%が小泉首相の「刺客戦法」を支持し、53%が「任期後も引き続き担当」を望んだということだ。

◆文化の小児病
西部邁氏の『大衆の病理 袋小路にたちすくむ戦後日本』からの引用。
ホイジンガ(J.Huizinga,1872〜1945)は、今世紀前半の大衆化の進展をまのあたりにして、「あそび」が「小児病」(puerilism)に陥っていると判断した。真剣な「あそび」は、厳格なルールの下に行われる非日常的な営みである。それにたいし小児病化した「あそび」は、厳格なルールなしに続けられる日常的な気晴らしのことだといえよう。

そして、あそびだけでなく文化も情報も小児病化しているという。
いわゆる情報なるものは、このような伝統の智慧に十分な考慮を払わない。それどころか、それを破壊することにおいて大胆きわまりない調子である。
その結果、情報の量は加速的に増大しているのに、意味・勝ちの空無感が確実に高まっている。その空無感を打ち消さんがために、さらに新奇な情報が供給され、大衆はわれ勝ちに飛びつくのである。しかしそれは「自動症化した合理性」の姿であり、「小児病化したあそび」の光景である。

◆南アジア地域研究の中島岳志氏(1975年ぬまれ)の話。
では、中島氏の「平成ネオ・ナショナリズム」とは何か。それは、国家とは直接結びつかず、「自分さがし」と「世界や超世界への関心」という両極端なベクトルが帰着する先のナショナリズム、ということになりそうだ。

◆旧ポストモダニスト、ジャック・デリダの話。
(生放送の)「生」が絶対的な「生」でないことを決して忘れてはなりません。(中略) 見た目の通信や放送の直接性[即時性]がどのようであるにせよ、この直接制覇、さまざまな餞別やフレーミング、限定された選択に妥協しているのです。たとえばCNNは、「ライヴ」や「生中継」などと呼ばれる映像に、ほんの一瞬のうちに介入して、映像の選択や、検閲、フレーミング、フィルター選別を行っています。(中略) あるテレビチャンネルで「生」「放送」されるものは、放送される前に生産されたものです。

◆「想像界のゲーム」
美人コンテストでみんなが誰に投票するか当てるゲームや、みんなが買う株を当てる株式投資のようなもの。
もちろん大衆の側にその意識はないだろうが、テレビが「小泉自民党こそ絶対多数者」という幻想を強化してしまったことは間違いない。「市場主義に基づく新自由主義」というかつてない協力で魅惑的なルールが支配する「多数に就こうとするゲーム」を、私たちは何らかの方法で抜けることができるのだろうか。(ジジェクは「何もしないことだ」というが…)

◆ホリエモンブーム
では、このバカ騒ぎめいたホリエモンブームの本当の仕掛け人とは、いったい誰なのだろう。視聴者なのかテレビ局なのか、それとも堀江氏自身なのか。“小泉劇場”と同じように、仕掛け人としての主体はどこにもいないのだろう。
あえて言えば、主体は「テレビカメラ」ということになろうか。カメラがそこにあるだけで、人は視聴者が自分に求めているイメージを自然に演じ、それを視聴者やテレビ関係者が喜んで受け取り、演じてはさらに渦状に演じる…。こういうテレビ的な「沈黙の螺旋」メカニズムが作動してしまうのだ。そこには何の検閲も批判も、加わる余地はない。

2007年09月02日 23:42 [一般] - No Trackbacks このエントリーを含むはてなブックマーク このエントリーをはてなブックマークに追加 2263

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